YAIZU PRIDE

- 持塚彌吉 HISTORY -

- 完成直後の焼津漁港 -

【プロローグ】

かつて東洋一と謳われた焼津港。

今では信じられないことだが、戦前には、港らしいものはなく田舎の漁村に過ぎなかった。

そんな焼津に一人の男が生涯を賭して焼津港の礎を築く。

その男の名は持塚彌吉(もちづかやきち 以下、彌吉)。

彼の功績に感謝をこめ、彼の生涯を振り返る。

- 現在の市場 -

【若きの日の持塚彌吉】

明治27年(1894年)4月3日、榛原郡金谷町(現:島田市)に蕎麦屋の息子として生まれた。

姉1人、弟2人の4人兄弟で育ち、家業を手伝いながら不自由なく暮らしていたが、彌吉が12歳の時、父が亡くなり、生活が一転した。

14歳の時に藤枝駅近くの私塾・知敬学校へ入学、寺に寄宿し3年間過ごした。

大正5年、22歳の時に俳人になる夢を抱き友人と上京したが、東京での暮らしは理想とは程遠く、苦労が絶えなかった。

薬局勤めに蕎麦屋の奉公、おでんの屋台を出すなど職を転々とすることになる。

その後、伯父から帰郷を促され、金谷に戻る。

帰郷後は伯父の仕事を手伝い、お茶の行商やミカンの運搬などをして休む間もなく働き続けた。

- 持塚彌吉 -

【焼津を地盤に】

半年もすると伯父からの援助もあり、杉材や杉皮の販売業を始め、焼津町西町の借家に移り住む。

苦難もあったが、翌年の大正9年(1920年)には薪・杉皮・木材箱の販売を始め、大正町(現在の昭和通り)に転居。

3年後の大正12年(1923年)、彌吉に転機が訪れる。

鮮魚商や水産加工業者の出資により、水産加工業の資材などを販売する焼津燃料株式会社が設立された。

29歳になっていた彌吉に白羽の矢が立ち、社長に推薦され同社の舵取りをしていく。

当初、事業は順風に進んだが、2年後には経営が苦しくなり、翌年には経営を依存していた焼津水産会が分裂し、昭和2年(1927年)には倒産してしまう。

彌吉は心機一転、大正通りの別の場所で精米業を営み始める。

- 彌吉が店を構えた大正町(大正末期)-

【築港運動の旗揚げ】

昭和3年9月4日、その時は遂に訪れた。

彌吉の日記によれば、岳父と弟の正夫が焼津に訪れ、奇勝と呼ばれる大崩海岸へ向かって3人で歩いている時、弟から築港の話がでた。

外国にはあって、日本には前例が少ない事など、様々な築港の事を聞き、一大決心に至りと記されている。

以前、彌吉は焼津燃料株式会社の仕事で海に出かけることが多く、港がないために漁業関係者が非常に苦労しているのを身近に感じていた。

当時の漁船は沖合100m付近に停泊し“はしけ”と呼ばれる小舟を使って、荷物の積み下ろしをしていた。

その作業には多大な労力が必要だった。

その後、県庁に出向いた彌吉は、土木課の技師と面談し、焼津漁港の築港は可能であることを聞き、自信は確信へと変わる。

そして、11月14日、大正天皇御即位の大典の日を記念して焼津漁港建設促進会を設立し、精米所を営む店先に事務所の看板を掲げた。

- 大崩海岸へ向かう道に架かる当目橋 -

【進まぬ築港】

翌年の昭和4年1月から彌吉は精力的に動き始める。

『焼津漁港建設趣意書』を町内に配布し『焼津漁港建設 賛成名簿』をもって町長、町会議員、水産関係者や一般宅を訪問し署名集めに奔走した。

町会も呼応し、港湾調査費を可決し、26日には第1回築港協議会を開催、築港期成同盟会設立準備会が結成され、36名の委員が決まるなど話が進んでいった。

さらに彌吉は、家業の精米業を使用人に無償譲渡し運動に熱中していく。

その後も町長などに働きかけ、5月29日に町議会が開催され、漁港委員15名が任命された。

彌吉の日記にも「万歳!嬉し」4名で祝盃を上げたと書き残されている。

いよいよ築港運動が本格的に動き出すかと思われた矢先に、町長の辞任があり、運動は止まってしまう。

町の有力者の半数近くは、彌吉の行動に批判的で、町民からは「移入者、気違い、山師」などと冷笑されていた彌吉は強い意志でくじけることなく運動を続けた。

県庁にいく汽車賃にさえ困る生活だったが、友人たちの援助を受け築港促進運動を続けていく。

何度か委員会が開催されるが進展せず、彌吉にとって「この頃の焼津は眠っている」状態だった。

このような状況の中、昭和7年6月に一気に築港へ進みそうなニュースが舞い込んだ。

日本政府は失業救済事業として修築港候補232港を発表し、焼津港も含まれていたのだった。

焼津築港促進会の主催で「築港は町産業の根源」「子孫の繁栄は築港にあり」などをスローガンにかかげ町民大会が開催され、公的な焼津築港期成同盟会が発足した。

彌吉も幹事になり陳情運動を展開する。

しかし、時の県知事の焼津港の修築は不可能という判断から、焼津町と小川村の合併を条件に、木屋川河口へ船溜まりの建設が提案され、町を2分する大論争となり、結局、知事の提案が採択された。

彌吉は昭和8年の町会議員に立候補するも落選、体調も崩し、金谷の実家で療養生活を送ることになり、築港促進運動は休眠状態となってしまう。

- 当時の木屋川河口附近 -

【あきらめない築港への思い】

翌昭和9年、体調が回復し、焼津に戻った彌吉は「挙町一致焼津築港の完成に貢献をなす事」も目的として、「焼津時報」を創刊。

創刊には260名のお祝い広告が名を連ね、その後も町当局の援助や有志の寄付と広告に頼り、内務省・県庁・町外の有識者などに郵送した。

昭和10年5月に開催された港湾協会との調査委員会では収容漁船200トン級、工事費200万円、築港計画が決定され、政府に建議することが可決された。

しかし彌吉は、港湾協会が提出した議案のほとんどが政府予算に編入されているとして、国の補助金と県の負担金を獲得する必要があると主張した。

その後も町当局、水産団体代表などが猛烈な陳情活動を繰り返し、昭和13年に農林省予算案に焼津漁港修築費が編入され、ついに衆議院で可決された。

後日、彌吉の妻は予算が決まった時の彌吉の様子を「神棚にお神酒をあげ、各方面に御礼に行くやら、本当に自分のことのように喜んでいました。

他人が見たら滑稽かもしれませんが、私も目頭が熱くなって仕方ありませんでした」と語っている。

(「志太ニュース焼津版」昭和32年)

昭和14年3月、昭和9年から発行し続けた「焼津時報」は築港促進の使命を果たし、155号をもって廃刊された。

- 当時の街並み -

【夢にまでみた築港へ】

昭和13年の支那事変によりいったん延期されたが、昭和14年5月には焼津漁港修築事務所が新設され実地測量が進められた。

しかしながら、時局から物資不足で工事はなかなかはかどらなかった。

焼津港の完成は終戦を待つことになる。

昭和25年に内湾竣溝工事が本格的に進められ、昭和26年に完成。

6月4日に竣工祝賀式が行われた。

当初、彌吉には招待状が届いておらず、それを知った湯尾留作氏(築港工事の事務所所長)が当局に強く抗議し招待状が発送され、最大の功労者である彌吉は無事に式典に参加することができた。

湯尾氏の回想によると、会場の末席に座り「声を立て泣いて喜んで下さったことも耳に目に焼き付いて消えないことどもである」と記している。

同月の24日、持塚彌吉はひっそりと57歳の生涯を閉じた。

後に、後援者であった村本喜代作県議は、「とにかく当時の彼は凄まじい勢いだった。持塚君の熱意で始まった焼津港は、いま全国屈指の大漁港となった。聞く所によると持塚君は不遇のうちに世を去ったというが、焼津の人々は彼の存在をあらためて銘記しなければならないのじゃないか、私は思う」と語っている。

(「志太ニュース焼津版」昭和32年)

- 完成した焼津漁港 -

【エピローグ】


彌吉が今の焼津を見たとき、彼の瞳にはどう映るのだろうか


焼津旧港跡地は、象徴であった蒲鉾屋根も撤去され、無機質な空間が広がる


清々しい青空の下、時折、カモメの鳴き声が耳をかすめる


ふと、目を閉じると、コンテナに山積みされた、今にもこぼれ落ちそうな鰹、蒲鉾屋根にこだまする鯔背なアナウンス、男衆や積み下ろしによる喧騒がリフレインし、どこか忙しない港の雰囲気が蘇る


これからの焼津には、どんな“港”が必要なのか


もしかしたら、想像だにしない“新しい港”が生まれてくるかもしれない


いずれにせよ、一つだけ言えることは、強い信念さえあれば、人々の気持ちや町さえも変えられるということだ


彌吉の残した足跡に想いを馳せ、あの頃と変わらない懐かしい潮の香りを感じながら、新しい未来にむけて歩き出す

- 旧焼津漁港 -